Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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基礎となるテーマ

*カント哲学と現代思想を理論的基盤とした、遺伝子改造や(デジタル化された記憶自体の移植による)サイボーグといった、21世紀以降の人類にとって極めてクリティカルなトピックに対応し得る哲学的に基礎付けられた生命倫理の構築。

その一方法論として、「この私は他人より、生存に値するか」という価値軸に沿って我々一人ひとりが際限なく階層序列化されていく社会的過程、すなわち[1]<我々自身の無意識>としての「汎優生主義(Pan-eugenics)」に照準した<言表分析>の方法論の構築と[2]それに基づいた分析成果の普遍化を目指す。言表群が位置するその都度の文脈の生成過程は無意識的なものであるが、同時に意識化され得るという二重性が、創造・創発過程の普遍性として、私たちの生存の根底において見出される。従って、上記<生命倫理>の構築作業の根底に据えられる課題は、この文脈の無意識的生成及びその意識化のメカニズムの探究・解明となる。


日米高齢者保健福祉学会 学会誌 第2号投稿論文

<我々自身の無意識>としての「普遍化された優生主義」の社会哲学的含意
――「応答型文章完成法(Responsive Sentence Completion Test)」を活用した分析を通じて

抄録
近年、遺伝子レベルの障害がもたらす諸問題の克服は、医療・保健・社会福祉が統合された政策・実践領域において、主要な社会的課題となっている。こうした状況において、個人、カップルの自由な選択による遺伝性疾患の診断、治療、予防という「新優生主義(Neo-eugenics)」理念の実践が、所謂「リスクグループ」の社会的選別過程となりつつある。本論においては、「この私の(または誰かの)生存が、他の誰かの生存よりも一層生きるに値する」という言説として明示化され得る無意識的信念を「普遍化された優生主義」と呼び、この「普遍化された優生主義」を<我々自身の無意識>として捉え直し分析する。
本論では、「普遍化された優生主義」は、「遺伝子の選別・改変によるQOL(生存の質:Quality of life)向上は正当化できる」という言説として明示化され得る無意識的信念となる。<我々自身の無意識>としての「普遍化された優生主義」は、「応答型文章完成法」を活用したアンケート調査を通じて言語化されその社会哲学的含意が分析される。
分析の結果として、<我々自身の無意識>としての「普遍化された優生主義」の社会哲学的含意は、「自由な選択はあるが、生存を序列化する選択肢は常にすでに決定されており、我々はその中で有効な選択をしなければならない」であることが明らかになった。

キーワード:普遍化された優生主義、我々自身の無意識、応答型文章完成法

Abstract

Socio-philosophical implication of ≪The Universalized Eugenics≫ as Our own Unconsciousness――through analysis applying The Responsive Sentence Completion Test
By Nagasawa Mamoru

Recently, overcoming problems brought about by genetic defects becomes a main social task in the area of policy-practice integrating medical care, public health, and social welfare. In this situation, the practice of Neo-Eugenics focusing on diagnosis, cure, and prevention of genetic defects by free choice of individuals or couples is likely to become the social selection process of the so-called risk group.
In this article, we call the unconscious belief My own (or anyone else’s) existence deserves to live more than some other’s ≪The Universalized Eugenics≫, and analyze this belief as Our own Unconsciousness.
In this article, ≪The Universalized Eugenics≫, in its reformulated version, becomes the unconscious belief Improvement of QOL(Quality of life)by genetic selection and/or genetic conversion is justifiable. ≪The Universalized Eugenics≫ as Our own Unconsciousness is brought into language through a questionnaire applying The Responsive Sentence Completion Test and its socio-philosophical implication is analyzed.
A main consequence of the analysis for the socio-philosophical implication of ≪The Universalized Eugenics≫ as Our own Unconsciousness is that there is a free choice, but the set of options in which we must make valid choices and which ranks our existence is always already predetermined.

Key words: The Universalized Eugenics, Our own Unconsciousness, The Responsive Sentence Completion Test.


1.「優生主義」の普遍化――その社会的背景と鍵概念
近年、「遺伝子レベルの障害」がもたらす諸問題の克服は、医療・保健・社会福祉が統合された政策・実践領域において、主要な社会的課題となっている。先端医療の現場を見ると、着床前受精卵の遺伝子診断や母体血清マーカーの遺伝子検査は、根治不可能とされる遺伝性疾患の発症が予測される子どもの出生の予防にとどまらず、多因子遺伝病とされる生活習慣病の遺伝素因を持つ子どもの抽出を目指している。(注1) 特に厚生労働省の「第4次保健事業計画」と「健康日本21計画」以降の動向に見られるように、近年の医療・保健・福祉政策は、要介護状態の「予防」を政策目標にしている。こうした状況において、個人、カップルの自由な選択による遺伝性疾患の診断、治療、予防という「新優生主義」理念の実践 (注2) が、所謂「リスクグループ」の社会的選別過程となりつつある。
以下、本論における鍵概念を定義する。まず、「優生主義(Eugenics)」を、正/負の価値軸に応じた社会集団の選別を目指す思想と実践と定義する。この思想と実践は、「この私の(または誰かの)生存が、他の誰かの生存よりも一層生きるに値する」という言説として明示化され得る無意識的信念にもとづくと仮定される。本論では、この信念を「普遍化された優生主義」と呼ぶ。
本論が提起する研究プログラム(以下「本研究」)は、現在及び近未来の実践的な生命倫理を構築する試みの端緒として位置づけられる。
2. 「普遍化された優生主義」の社会哲学的含意の分析に向けて
本研究は、「普遍化された優生主義」を、<我々自身の無意識>として捉え直し分析する。
ところで、「この私の(または誰かの)生存が、他の誰かの生存よりも一層生きるに値する」という信念は、一元的な価値尺度を前提している。この信念は、「個々人のQOL(生存の質:Quality of life)は、一元的な価値尺度により階層序列化できる」という信念に置き換えられる。言い換えれば、「この私の(または誰かの)生存が、他の誰かの生存よりも一層生きるに値する」という信念において、QOLという概念は、すでに一元的な価値尺度として先取りされている。従って、最初の信念は、「個々人の生存価値は、一元的な価値尺度としてのQOLにより階層序列化できる」となる。(注3)
さらに、先の信念は、「QOLの値を、テクノロジーによって向上させることは正当化できる」という信念に置き換えられる。本研究においては、遺伝子の選別・改変によるQOL向上という事例が分析される。以上から、「普遍化された優生主義」は、「遺伝子の選別・改変によるQOL向上は正当化できる」という言説として明示化され得る無意識的信念となる。
上記信念との関連で本研究が注目するのは、遺伝子診断等のテクノロジーが進展した90年代以降、医療・保健・福祉が統合された法制度と結びつきながらグローバルに増殖する言説実践である。日本におけるその法制度として、1997年に成立し2000年に施行された介護保険制度が存在する。従って、本研究の被験者は、介護保険の現場に従事する在宅福祉サービス提供事業者職員とする。
<我々自身の無意識>としての「普遍化された優生主義」は、本研究が試みる「応答型文章完成法」を活用したアンケート調査を通じて言語化される。以下において、アンケート調査の応答文のサンプル(実際に使用する質問票)を示す。
【質問票】
*性別 (女性・男性)
*年齢 (20代・30代・40代・50代・その他)
*職種 (ケアマネジャー・ケアコーディネーター・ヘルパー・その他)
下記のそれぞれの<a>欄(以下、「テーマ文」と表記される)の発話文を読んで、最初に頭に浮かんだ言葉を<b>欄に記述して下さい。記入の際には、他の人と相談せずに自分だけで記入して下さい。どのように書けば正解ということはありません。また、制限時間はありません。訂正は、なるべく2本線で行って下さい。
1.<a:これからは、自分の子どもが生まれてくる前に、その子どもの遺伝子を変えることができるようになるかもしれない。どういうことかと言うと、もしこれまでのように何もせずにそのまま生まれてきたとしたら、成長するにつれて難病などになってしまうことがあらかじめ分かっているような子どもでも、これからはそうはならないようにすることができるということだ>
<b>:(この空欄は、少なくても5行以上記述可能なスぺースを確保する)
2.<aさっき言ったことをさらに進めて言うとこうなると思う。これからは、子どもが生まれてくる前に遺伝子を変えて、何もせずにそのまま生まれてきたときよりももっと健康だったり、背が高かったりする子どもを産むことも技術的にはできるようになるということだ。本当にそうなるかどうかは分からないが。すると、カップルの希望に応じた子どもを作るといったSFのような話も夢ではなくなるかもしれない>
<b>:(同上)
3.<a:もっと身近な、もうすでに始まりつつある話もある。個人個人で違う遺伝子を検査したり診断したりすることによって、これから生まれてくる自分の子どもに、さっき言ったような何か深刻な問題が見つかったとしても、産みたいと思ったこどもだけを産むことができるようになるということだ。遺伝的な問題は、ある特定のガンになりやすいとか、アルコール依存症になりやすいとか、さらには攻撃的な性格になりやすいとか色々なことが考えられるようだ。ともかく、治療方法のない難病などの場合、それが個人やカップルの選択によるのなら、受精卵を廃棄したりして出産をあきらめてもやむを得ないと思う>
<b>(同上)
(以上【質問票】の提示)
本研究は、応答型文章完成法を活用することにより、被験者の無意識的な信念を言語化し分析する。(注4) 個人の無意識的信念は、言説実践を通じて構築されている。<我々自身の無意識>は、こうした言説実践を媒介する。個人が言語活動の主体として社会的に構築されていく過程で、発話行為や書く行為として実践・反復される一群の言説が生産される。本研究においては、被験者の言説実践によって完成される応答型文章(応答文)の生成過程を媒介する文脈が分析される。
3. 「普遍化された優生主義」の社会哲学的含意の分析――事例の提示
筆者は、2005年3月27日から9月1日にかけて、アンケート調査の対象者による回答(応答文)の分析を行った。対象者は、民間株式会社である指定居宅サービス・指定居宅介護支援事業者に所属する職員13名(ケアマネジャー9名、その他4名)であるが、本論では、事例を以下に示す4名の応答文に絞る。
*事例1の分析:属性;女性・その他・ケアマネジャー
1への回答(以下同様):そうすると世の中は優秀な人間ばかりになるのだろうか。いいことなのだろうけれどなんだかつまらない気もする。親の好みで遺伝子が変えられるとひずみができてくるのではないだろうか。
2:それができるとなると自分のよいところを更にのばした子どもを望むだろうか。それとも、まるで反対のあこがれの人物像にするだろうか。いずれにせよあまり自分と似ていない親子ということになる。うまくいかない時は自分に似たんだからしようがないという諦め方はできなくなる。
3:現実的な話でも重い人生を自分や人に負わせることはできないが---。本当はどんな子が生まれても家族や社会で守ることができるのがよいと思う。
以下、筆者が行った分析結果を簡略化した記述を提示する。
まず、テーマ文1への第一の応答文「そうすると世の中は優秀な人間ばかりになるのだろうか」には、「優秀(な人間)か否か」という価値付けが含まれている。その基準、すなわち「そうすると」の内容は、テーマ文1を受けているので、「成長するにつれて難病などになってしまうことがあらかじめ分かっているような子どもでも、これからはそうはならないようにすることができる(のであれば)」である。従って、ここでは、「遺伝子への技術的介入により難病等の属性が除去された状態=優秀」と「除去されていない状態=優秀ではない」という文脈が生成している。すなわち、人の属性の序列化である。
ところで、人の属性の序列化は、属性の序列化に応じた、そのような属性を持った人の生存の序列化でもある。人の属性の序列化は、人の生存それ自体の序列化なのである。こうした価値付けは、「遺伝子疾患という属性を持った人の生存は、そうした属性を持たない人の生存より価値が低いものであり、本来はその出生が予防され得た」という言説として明示化され得る無意識的信念のもとにある。言い換えれば、この個人が属性(同時に生存そのもの)の序列化という文脈を意識しているとは限らない。むしろ、このような記述を行う個人にとって、こうした文脈の生成は無意識にとどまる。
 次に、「優秀な人間ばかりになるのだろうか」という記述には、既述の無意識的信念がすでに偏在した世界がイメージされている。つまり、そうした世界が、「優秀な人間ばかりになる世の中」としてイメージされている。それは、「難病等の属性が除去された状態=優秀」と「除去されていない状態=劣等」という二項対立が常にすでに前提され、こうした属性の除去あるいは出生そのものの予防という思想と実践が偏在する社会である。
第二文「いいことなのだろうけれどなんだかつまらない気もする」は、もしそれが意識化されるなら、「常にすでに、すべては超微細なレベルで決定されている」といった言説で表現されるような耐え難い退屈さを表現している。
次に、テーマ文2への応答文において注目すべき点は、「それができるとなると」という表現である。先の「そうすると」と、ここでの「それができるとなると」という書き出しのスタイルは酷似している。この特徴から、この記述は遺伝子改変に対する肯定的な要素が強いと言える。ここには、この技術的介入が致命的な事態をもたらす可能性についての危惧はない。すなわち、改変された遺伝情報が世代を通じて子孫に継承されていくことがもたらす予測不可能な効果という問題である。さらに、「自分に似たんだからしようがないという諦め方はできなくなる」という記述からは、そのようにして「生産された」子どもが負う計り知れないリスクについての眼差しがない。「うまくいかない時」の「諦め」が、もっぱら自分自身のこととして語られている。
ある個人がこうした問題に直面するなら、それは、この私の選択する行為がヒトという種の改変をもたらすという事態の認識を迫ることになる。言い換えれば、それは、自らの選択した行為の結果としてその「責任=応答可能性(responsibility)」を引き受けることである。だが、私たちは、少なくても現状では、実際に種を改変し得る選択の場に立つことはできない。また選択し得たとしても、その選択の時点から無際限に続く時間の中でのヒトという種の変容に対する責任=応答可能性を負うことはできない。そのような選択の場に立たされ、選択した後は、もはや責任を取り得る地点への後戻りはできない。すなわち、私たちは、「原理的な無責任」を無意識の内に強いられてしまうことになる。
また、テーマ文1への応答文と同様に、論理的一貫性の希薄さも本事例の特徴である。遺伝子改変あるいは生命の選別に対して肯定的・否定的な主張のいずれと仮定しても、一貫性を読み取ることは困難である。
だが、一貫性が稀薄であるという事態と、<我々自身の無意識>が意識されずにとどまるという事態とは不可分である。言い換えれば、「それができるとなると」以下の記述の一貫した意味内容の稀薄さこそが、根底に存在する<我々自身の無意識>を示している。おそらく、<我々自身の無意識>を意識化しそれに直面するという事態は、あるメカニズムによって予防的に排除されている。
次に、テーマ文3への応答文だが、まず、「現実的な話でも」は、テーマ文3冒頭の「もっと身近な、もうすでに始まりつつある話もある」という記述を受けている。<我々自身の無意識>が偏在する世界イメージは無時間的なものであるが、「もっと身近な、もうすでに始まりつつある話もある」というテーマ文3冒頭の記述が時間性を導入することになる。この時間性の導入が、<我々自身の無意識>の意識化の端緒となるのではないか。
実際、「現実的な話でも重い人生を自分や人に負わせることはできないが---」の記述にいたって、「重い人生を自分や人に負わせることはできない」ということ、すなわち自分の場合にも人の場合にも避けがたい事態として、生命の選別(「不要」になった受精卵廃棄等)という行為が意識化され始めている。「できないが---。本当はどんな子が生まれても家族や社会で守ることができるのがよいと思う」という記述がなされているのはそのためである。
*事例2の分析:属性;女性・40代・ケアマネジャー
1:確かに、遺伝子が解決されれば、全て、生きとし生けるものに係わることは、解決されるに違いない。
2:しかし、ほんとうにそうなるだろうか。クローンの動物は早死しているし、所詮人間が創るものだ。人は神になれるかという哲学的な問題に発展していくことになるだろう。
3:さきほどまでは、身近には考えていなかったかもしれない。しかし、現実問題、自分のみに置き替えてみると、遺伝子に傷がついていた、変な子が生まれるかもしれないと思うと、その時になってみなければわからない。否、考えたくないと思っている。
この事例では、テーマ文1、2に対する一連の応答文において、いったん提示された仮説に対する懐疑が見られる。テーマ文1への記述は、「遺伝子レベルでの生きとし生けるものに係わること全ての解決」といった極端な表現だが、むしろここで重要なのは、「ほんとうにそうなるだろうか」という表現である。すなわち、ここで語られているのは、「遺伝子レベルで生きとし生けるもの全てに係わることが解決するという観念に対して、私は懐疑的である」ということである。そのことは、後続する「クローンの動物は早死しているし、所詮、人間が創るものだ。人は神になれるかという哲学的な問題に発展していくことになるだろう」という記述によって裏付けられている。言い換えれば、「所詮、人間が創るものだ。人は神になれるかという哲学的な問題に発展していくことになるだろう」という記述は、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」という観念に対する懐疑を表現している。
それでは、この「懐疑」の生成とはどういう事態なのか。まず、この段階では、テーマ文1、2が提起する問題に対する判断が保留されている。「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」という観念は、意識に受容され得ないものにとどまっている。
ところで、テーマ文1、2は、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えてしまう」という点では違いはない。ここで仮説を提示すると、テーマ文に応答する個人にとって、テーマ文1は「健康であることを希求する遺伝子の改変」に対応し、テーマ文2は「個別的な属性の序列化」に対応するものとして受け取られるために、二つの記述が分岐することになる。
言い換えれば、テーマ文に応答する個人にとって、背を高くしたりするための介入(テーマ文2に対して)は望ましくないが、健康を願う故の介入(テーマ文1に対して)ならあり得るということである。この二つの記述の分岐は、あくまでも応答する個人の意識におけるものであり、無意識の文脈の生成過程を反映してはいない。どういうことだろうか。
先の個人にとって、「属性に関わる遺伝子改変」に対する懐疑はあっても、「健康であることを希求する遺伝子の改変は、生存そのものの序列化の肯定である」という認識はない。この点を考慮すると、先の仮説は、次のようになる。
1. テーマ文に応答する個人にとって、テーマ文1は、「健康であることを希求する遺伝子の改変」に対応するものとして肯定的に意識される。
2. テーマ文に応答する個人にとって、テーマ文2は、「個別的な属性を序列化する欲望に基づく遺伝子の改変」に対応するものとして否定的に意識される。
3. 以上の記述の分岐は、文脈生成過程における一貫性を示している。
以上をまとめると、次の様になる。
:「健康への希求に基づく遺伝子の改変は許容できるが、属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変は望ましくない」という記述は、文脈生成過程における一貫性を示している。
以下、この一貫性について考えてみたい。
テーマ文3では、「不要」になった受精卵の選別・廃棄といったケースが提示されていた。ここでテーマ化された受精卵の選別・廃棄という行為は、致死的な難病にとどまらず、「攻撃性」といった属性と関係付けられた遺伝的因子を持つ子どもの予防をも目指すものとされている。従って、この行為は、遺伝子の改変という行為と同様に、「(心身の)健康への希求」と「属性の序列化への欲望」の両者を含んでいる。
こうした点を考慮した上で、受精卵の選別・廃棄という行為をテーマ化したテーマ文3への応答文から、上記仮説3の一貫性を次のように考えることができる。
これら両者は、どちらも生命の序列化・選別という行為であるが、そのことへの認識の生成は、<我々自身の無意識>において予防的に排除されている。この排除のメカニズムの一貫性が、「健康への希求に基づく遺伝子の改変は許容できるが、属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変は望ましくない」という記述の分岐を生成する。
しかし、テーマ文3によってテーマ化された受精卵の選別・廃棄という行為に対する応答に迫られた個人は、無意識における予防的な排除のメカニズムの揺らぎに直面する。言い換えれば、この揺らぎの過程が、「健康への希求に基づく遺伝子の改変」と「属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変」の両者がどちらも生命の序列化・選別であるという認識の端緒となる。
個人が、自らの記述にたじろぐのはここである。先の「さきほどまでは、身近には考えていなかったかもしれない。しかし、現実問題、自分の身に置き替えてみると、遺伝子に傷がついていた、変な子が生まれるかもしれないと思うと、その時になってみなければわからない。否、考えたくないと思っている」という記述は、先の認識の生成とそれに抵抗する予防的排除のメカニズムとの葛藤という事態をなかば意識化しているのである。
本事例でなかば意識化された生命の序列化・選別に対する無意識の肯定は、第二文の「変な子」という表現としてその姿を現すことになる。<我々自身の無意識>は、この「変な子」をいつもすでに胚胎しているのかもしれない。
*事例3の分析:属性;性別無記・50代・ケアマネジャー
1:遺伝子を変えることで、難病など、事前に防げるとしたら大変良いことだと思います。しかし、生命体の根元である遺伝子を操作して、その為の弊害は? 人間が、人間を変えることに恐怖さえ感じる。
2:多分、将来そんな時代が、来ると思いますが、生命の神秘、人間が個性を持って生きることに関して、誰かが、生きることを操作していることと同じである。いろいろな人間がいてこそ、社会であることの証明である。
3:前問で書いた通り、遺伝子の操作は、難病限定とか、医者のモラルなど、しっかりとした法律など出来れば良いのかなと感じるが、人間はどこまで行っても人間である以上、子孫のことは、放棄してもらいたい。
まず、テーマ文1に対する「事前に防げるとしたら大変良いことだと思います」という記述から、難病の予防に関しては、遺伝子の改変に対してかなり肯定的である。だが、直後の「弊害」や「恐怖」といった言葉によって、予期せず肯定的な反応を示してしまった自分自身に対する不安と葛藤が表出されている。このような「取り消し反応」は、無意識における予防的な排除のメカニズムの存在を示している。
先の事例で見られたテーマ文1、2に対する記述の分岐が、ここではテーマ文1への応答文において一挙に見られる。また、「人間が、人間を変えることに恐怖さえ感じる」という記述は、種の改変という問題を予想しているように見えるが、ここではまだ、その問題に自らを直面させてはいない。
 次に、テーマ文2に対する記述だが、「多分、将来そんな時代が来ると思いますが」という表現は、必ずしも成り行き任せの構えを表現しているのではなく、むしろ「将来そんな時代が来るかどうか」に関して、この私は何ら決定権力を持ち得ないという無意識の前提を示している。ここでは、決定権力の主体は、「誰かが、生きることを操作している」という表現における「誰か」という言葉で示されている。言い換えれば、「将来そんな時代が来るかどうか」に関して、私たちの手の届かない所で誰かが決定するだろうという無意識である。
テーマ文1への応答文において意識化された不安が、ここではさらに「人間が個性を持って生きることに関して、誰かが、生きることを操作していること」や「いろいろな人間がいてこそ、社会であることの証明である」という記述へと展開している。だが、その不安はあらためて吟味されていない。
 次に、テーマ文3に対する記述だが、「前問で書いた通り」の「前問」は、単に直前のテーマ文2への応答文(以下2とする)のみではなく、テーマ文1への応答文(以下1とする)をも指示している。1への参照が「遺伝子の操作は、難病限定とか、医者のモラルなど、しっかりとした法律など出来れば良いのかなと感じる」を導出し、2への参照が「子孫のことは、放棄してもらいたい」を導出している。従って、この段階においても、先に見た不安と葛藤が見られる。また、「もらいたい」という表現から、問題に自らが直面することは回避されている。それだけに、この個人における予防的な排除のメカニズムの存在が強く示唆される。
*事例4の分析:属性;無記
1:子どもが健やかに成長することはすべての親の望みである。しかし、成長とともに難病などになってしまうと分かっているからといってその子の尊厳自体がなくなるものではない。生きることのすばらしさが別の世界観を親と子に与えてくれるかもしれない。
2:確かに人間の尊厳とは健康であったり、背が高かったりすることにより自信が持てることから発生する部分もあるとは思えるが、しかし、真の尊厳とは、どの様な局面に対しても自らが受けとめ、生きることのすばらしさを発見するところにあると思う。人が生きることはSFのような話の中でも唯一、技術的・科学的な部分が及ばないところにあるのではないかと思う。
3:
テーマ文1に対する「別の世界観を親と子に与えてくれるかもしれない」という表現における「別の世界観」は、子どもという他者の「尊厳自体」が、そして子どもとともに「生きることのすばらしさ」が、「親と子に与えてくれるかもしれない」ものである。ここでテーマ化されているのは、子どもの他者性がもたらす「別の世界観」と「世界観=X」との差異である。
 この「世界観=X」とは、「遺伝子疾患という属性を持った人は、本来はその出生(生存)自体が予防され得た」という言説が表現する世界観である。そこには、「成長とともに難病などになってしまうと分かっている」にもかかわらず技術的介入が為されなかった子どもという他者が存在する余地がない。言い換えれば、「世界観=X」とは、「遺伝子改造による難病等の属性が除去された状態」と「除去されていない状態」という二分法が前提され、こうした属性の除去あるいは予防という思想と実践が偏在する世界のイメージである。
すなわち、「別の世界観」とは、この「世界観=X」と対比された「別の世界のイメージ」なのである。子どもという他者の「尊厳自体」は、「世界観=X」による生存の序列化へと回収され得ないものとしてイメージされている。
 次に、テーマ文2に対する「真の尊厳とは、どの様な局面に対しても自らが受け止め、生きることのすばらしさを発見するところにある」という記述は、子どもという他者を自らが受け止めることによって、子どもの他者性がもたらす「別の世界観」を親が子どもと共有することを意味している。
また、「人が生きることはSFのような話の中でも唯一、技術的・科学的な部分が及ばないところにある」という記述においては、「人が生きること」あるいは生存それ自体は、ハイテクノロジーによる生命の選別という思想と実践が偏在する世界にあっても序列化され得ないとされている。また、冒頭の「確かに人間の尊厳とは健康であったり、背が高かったりすることにより自信が持てることから発生する部分もあるとは思える」に続く「が、しかし」という逆説表現は、この個人が、「健康であることを目指す遺伝子の改変は、それ自体生存そのものの序列化の肯定である」という認識に接近していることを示している。
この認識への接近とも関わるが、本事例においては、これまで見てきた、無意識の否認を支える予防的排除のメカニズムが十分に機能していない。では、次のテーマ文3に対する記述の空白をどう考えればよいのか。
この記述の空白においては、たとえそれが「世界観=X」と重なるとしても、「個人やカップル」という自分とは異なる他者の抱く世界観が、この私に対して持つ他者性が顧慮されていると考えられる。この個人による「個人やカップル」という他者の他者性への顧慮が、その前では沈黙せざるを得ない記述の壁となっている。記述の壁とは、言語化(意識化)の中断を意味する。従って、この記述の壁は、いったんは意識化されかけた予防的排除のメカニズムの機能を再び回復させることになる。
だとすれば、この他者の他者性への顧慮という契機においてこそ、「個人、カップルの自由な選択」による遺伝性疾患の診断、治療、予防という「新優生主義」理念の実践が、その戦略的な有効性を示している。そのメッセージは、個人、カップルの「自由な選択」が、「生存を序列化する選択肢は常にすでに決定されている」という枠組みの中でのみ有効になるということである。
これまでの分析から、<我々自身の無意識>としての「普遍化された優生主義」の社会哲学的含意が明らかになる。それは、「自由な選択はあるが、生存を序列化する選択肢は常にすでに決定されており、我々はその中で有効な選択をしなければならない」である。
結論
<我々自身の無意識>を意識化しそれに直面するという事態は、あるメカニズムによって予防的に排除されていた。この予防的排除のメカニズムにより、応答文は、「健康への希求に基づく遺伝子の改変は許容できるが、属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変は望ましくない」というスタイルになるが、この記述は、文脈生成過程におけるメカニズムの一貫性を示す。受精卵の選別・廃棄という行為に対する応答に迫られた個人は、このメカニズムの揺らぎに直面する。この揺らぎの過程が、「健康への希求に基づく遺伝子の改変」と「属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変」の両者がどちらも生命の序列化・選別であるという認識の端緒となる。その際、個人の応答文は、先の認識の生成とそれに抵抗する予防的排除のメカニズムとの葛藤という事態を表出する。また、他者の他者性への顧慮という文脈が一貫して生成している事例では、この他者の他者性への顧慮という契機において、「個人、カップルの自由な選択」に基づく「新優生主義」理念の実践が、その戦略的な有効性を示していた。分析の結果から、<我々自身の無意識>としての「普遍化された優生主義」の社会哲学的含意は、「自由な選択はあるが、生存を序列化する選択肢は常にすでに決定されており、我々はその中で有効な選択をしなければならない」であることが明らかになった。
【注】
(注1) 母体血清マーカーの遺伝子検査は、不特定多数を対象とするマス・スクリーニング(選別的集団検診)に適合する。
(注2) 根村直美:WHOの<健康>の定義.現代思想 vol.28-10: 153-169,青土社 2000
(注3) 以下、QOL概念に関して補足する。「健康日本21 総論参考資料 参考1 健康指標の意義と算出方法」によれば、まず、「第1節 健康指標の意義と算出方法」において、「健康日本21は、健康寿命を確保するためにその集団の健康負担を評価して、政策を決定するものである。このためには、健康寿命を一つの基準として、健康負担を定量的に評価することが必要である。健康寿命に対して健康負担を評価する考え方として、以下のような指標が考えられる」とされ、それら指標の一つとして「QOL指標」が挙げられている。ここで「QOL指標」とは、「死亡や健康障害により日常生活に制限を受けることが無くとも、生き甲斐を持って自己実現を果たせるような日常生活を過ごしているか否かを評価するものである。目的にしている生活の質であるQOLがどのような状況にあるかを定量的に評価する指標が含まれる」と定義されている。具体例として挙げられているEuroQOL EQ-5D(cf. http://www.euroqol.org/)は、「5つの項目属性(移動の程度、身の回りの管理、ふだんの活動、痛み/不快感、不安、ふさぎ込み[Mobility,Self-care,Usual activities,Pain/Discomfort,Anxiety/Depression])について、VAS(visual analogue scale)によって評価」するものである。また、「QOLに関する調査法は、すでに幾つか提案された調査法が存在するが、国際的に標準化された同じ調査法を使用することが望ましく、同一の調査法を用いてQOLを測定していくことが望まれる」と述べられている。従って、わが国を含む国際的な政策レベルでは、今後各国独自の換算式を組み込みながら、QOL指標とそれによる評価が標準化されていくことになる。すなわち、「個々人の生存価値は、一元的な正/負の価値軸すなわちQOLにより階層序列化できる」という信念が、すでに統合された医療・保健・福祉政策のパラダイムとなっている。
(注4) 文章完成法による分析を基礎付ける理論的仮説について、Stein,M.I,The use of a sentence completion test for the diagnosis of personality. J.Clin.Psychol,3:46-56,1947.及び上里一郎監修:心理アセスメントハンドブック 第2版,西村書店,235-236,2003を参照。
文献
著書
上里一郎監修:心理アセスメントハンドブック第2版,西村書店,235-236,2003
論文
根村直美:WHOの<健康>の定義.現代思想 vol.28-10: 153-169,青土社 2000
厚生労働省ホームページ資料:健康日本21 総論参考資料 参考1 健康指標の意義と算出方法.http://www1.mhlw.go.jp/topics/kenko21_11/s1.html

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